様々な宗教家の中で、
坐禅師の生き様や言葉を目にすると、
広大な宇宙と大自然の営みを感じる。
坐禅師の、
あぐらを掻いた真っ直ぐで清廉な背筋、本当にうつくしい。
恋してしまうほど、その姿に惚れ込んだ。
私が最初坐禅を知ったのは17歳の頃
数えきれない程繰り返し読んだ本がある。
何処に行くにも、その本は私と一緒だった。
今は亡き、韓国では有名な法頂和尚さん。
卓越した散文作家であり、禅師でもあった。
一人で行なう毎日の修業、坐禅。
山での単純な暮らし、山と生き物達との共存共生。
インドやチベットその他、色々の国を訪れた時の感想や、
生老病死、森羅万象に対する見解の活字を目にして
私は興奮した。
本のページを捲ると、自分の中にある全ての疑問の答えが
書かれていたのだ。
本を読むうちに、
思想とか哲学、人間の力、心を超える、
自然、宇宙へのエネルギーに漠然な憧れを抱くようになった。
本に書かれている意味を、
頭ではなく、どうしても五感で感じたかった。
しかし、いまでも感じ取ることがなかなか出来ない。
坐禅を行い悟りたい思いはまったくない。
無心になりたい訳でもない。
少しでも、意識(こころ)から開放される瞬間を
感じ取りたかった。
‘‘無”とか‘‘空”と言う無意識の世界に強く惹かれていたのである。
何年か前、宮崎えきほ禅師の事を知った。
永平寺、それから、中央寺。
中央寺は札幌の歓楽街すすきのにある。
何だか面白い。
浮き世の中の俗世、すすきの
その真ん中にある禅寺。
宮崎禅師は1976年~1993年までお務めになられたという。
私が驚いたのは(あくまでも、本と映像で知る限り)
法頂和尚と宮崎禅師の顔立ち、
漂う雰囲気、お言葉遣いまでがあまりにも似すぎていたことだった
それと同時に、
なんとも言えないありがたい嬉しさが心の中に充満していた。
好きな言葉と言うより、実行したい教えがある。
法頂和尚の言葉だが、
そのまま訳すると
‘‘腹の中に飯は少なく、頭の中に考えは少なく、口の中に言葉は少なく”
私は何一つ、実行していない。いや・・・出来ないな!
簡単そうで簡単じゃない。
せめて、‘‘腹の中に飯は少なく” だけでも・・・
と思いづつ、かなりの量を食べてしまう毎日。
座右銘までとは言えないが、
自分自身、意識の中に言い聞かせる
一つの言葉があると、
人生、少しは助かるかも・・・・・また、頑張れるかも。
※法頂(ポプジョン)と言います。
何冊か、日本語に翻訳されている本がありますので、(アマゾン)
興味のある方はぜひ、読んでみて下さい。
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