詩人へ。

今までの私の人生において、心の中は常に
秋の荒野を思わせる風景であった。

その風景とは、夕暮れの朱色、薄紅色、灰色、
焚き火のような赤い色々が混じりあい、生と死を包み、
寂幕たる彼方へ旅たつような、何んともいえない
憧れやむなしさを心臓へと運び、
弱者を脈打ちさせる、始まりと終わりの風景である。

寂しそうな秋風に揺れ動く私だけの燈は
荒野の中で消えそうで消えないまま、
子どものときから今までずっと火種を
持ち続いている。
人影のないその荒野には時々牡牛が現れ鳴いていたり
優しい眼差しで見つめていたりしていたので、
私はそれほど寂しくはなかった。

どうしてなのかわからないけど、
その牡牛は詩と結びつけられていて
牡牛=詩人という事になっていた。
韓国の詩人キム・ソウォル、ユン・ドンジュ、
ジョン・ホスン、リュ・シファ、キム・ジハ

この詩人たちは私の火種である。

そして、感謝すべきもう一人
寺山修司。

所詮、詩というのは、
心を表す言葉から生まれる思想の、感性の
個人の表現かも知れないが、
私は‘‘詩’’がなかったらとっくに死んだ。
大げさでもなく詩の一節、詩人の絞り出した血によって
私は愚かな希望を胸に抱き、今もこれからも
何とか生きていける。

あの、秋の荒野はあまりにも広すぎて、
どこまで続くのか、その先、何があるのかわからないが、
私は知りたくもない。

私の心臓が動く限り、私はあの風景の中で
彷徨いつつ模索しながら小さな自由を描き続けていたい。
それが叶わないことだとしても・・・・・・・。

寺山修司の「地平線のパロール」にこんな言葉が書かれてある。

「人は言語によってしか自由になることができない。
どんな桎梏からの解放も言語化されない限りは、
ただの‘‘解放感’’であるにとどまっているだろう」。

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