愛人(エイン)

恋に落ちることは、
いつかは底に沈むこと。

恋が冷めることは、
いつかは目移りすること。

恋愛の達者は、
本能だの理性だの
都合のいい事を並べる。

上っ面のよい臆病の言い訳は
格好悪い。
上っ面のわるい臆病の言い訳は
更に格好悪い。

あなたに、格好いい愛人はいますか!
あなたに、格好いい恋人はいますか!

愛に落ちることは、
生まれ変わること。

愛が冷めることは・・・
宇宙には存在しない。

軽々と恋を礼賛してはいけない。
恋と愛は紙一重
重苦しく愛を崇拝してはいけない。
愛と恋は表と裏

私には、格好いい愛人はいません。
私には、格好いい恋人もいません。

けれども、
生まれ変わった、私がいる。

愛してる!

底のない意識から湧き出るささやき。
あなたも、私も、
エインへ贈りましょう!

愛の達者は、格好いい・・・です。


※エイン
 ‘‘愛人”は韓国語で「エイン」と言う。
 ‘‘愛する人” と言う意味(男女)。
 日本語の恋人に近いかな?!
 愛に落ちるとは言うが恋に落ちるとは言わない。
 韓国人の愛の言葉、表現、行動は凄い。
 韓国のテレビドラマを見ると恥ずかしい限り。
 (韓国に居た頃は普通)
 ‘‘エイン” と ‘‘アイジン”
 日本では愛人は、韓国とはかなり違う意味ですね(笑)

 

ベサメムーチョ

深夜の福生。
怪しげな迷路をくぐり抜けると
ギター弾き男に会える。
黒いテーブルクロースの上、
赤いバラ一輪。
慣れない手つきでグラスをまわしながら
古臭いメロディー、ベサメムーチョに
酔いしれる。

想いでの深いあの歌を
こんな所で聴けるとは・・・
まさか、ギター弾き男に
心奪われるとは・・・。

人生は、重なる不測連続の日々。
不揃いの魂のまま、
運命を愛することなど出来ない。
ただ、一曲の歌により、
一切の迷いも無く、愛に生きる覚悟を決め
偽りの抜け殻と仲間を捨て、
ギター弾き男の所へ。

この街の匂いは、
薬の効かない頭痛をひき起こす。
きつい香水と酒は体臭に混ざり
脳に、無駄な刺激を与える。
だから、皆狂気に踊り、
それぞれの国の言葉で叫び、
男らと女らは
ゴミ箱を漁る溝鼠のように
くんくんと鼻を鳴らす。

そろそろ異色地帯から
抜け出さなければ・・・・・

厚化粧に悲しみを隠し、
踊る仲間達の顔。
夢を叶える為のお金
家族を養う為のお金
ブローカーの脅かに納めるお金
恋人の学費の為のお金・・・・・

もはや、私には金など要らない。
必要なのは勇気だけ。
逃げるように駆け込んだ夜の日
ギター弾き男は何も言わず、
私を迎え入れてくれた。

欲望より濃い、じめじめした哀愁の街。
あの頃の、人々の切実な願い
きっと、叶えられていて欲しい。

望み

行けるのなら、何処までも行きたい。

探検家でも、理想主義でもない。

独立した者として生きる権利、

私は線引きのない国境を望んでいる。


言えるのなら、とことんまで言いたい。

自己感情の表現でも、世の不条理でもない。

差別の無い誇らしい言語の自由、

私は言葉の尊重さを望んでいる。


信じるのなら、信愛を貫きたい。

無欲者でも、博愛主義でもない。

常識の超越した愛の真理

私は許されない愛の尊いさを望んでいる。


書けるのなら、何もかもを書き続けたい。

ロマンチシズムでも、孤高な詩人気取りでもない。

恥じらいの告白、取り止めもない想念、

私は己への罪滅ぼしを望んでいる。


踊れるのなら、身を纏う物を脱ぎ捨てたい。

喜怒哀楽のダンサーでも、美しい舞踏家でもない。

汗と涙、人生のファンタジー

私は道化師のピエロを望んでいる。














私には

私にはこの道しかない。

戸惑いの選択を繰り返しながら
歩んできた旅路
時には何かのせいにして、
理屈を並べ、垢を罵る。

自分と他人への失望
自分と世間への反抗
自分と愛への無知
生と死への恐れ。

それぞれの全てが
今の私を育み、
これからの人生の道を
豊かに色取るだろう。

事々に値札を付けて
価値判断に悩まされず
自分の役割、
存在と言う大切な重みを
忘れてはいけない。
誰もが、何もかもが
意味のある存在。
神から与えられた道のりが
苦難の連続だとしても
愛すべきである。

自分と他人への信頼
自分と世間への繋がり
自分と愛への真心
生と死への真理

これからも
漠然たる不安に襲われながら、
躓きながら歩む道のり。
かけがえのない人生の旅路
曲がり角が見えたら
腰を下ろし、
向こうの道端へ手を振るがいい。

そして、
愛する人への慈しみを
素直に、けちる事無く与えたい
どのような事があっても・・・

私には私の道がある。
私には、この道しかない。













 

小石達

一仕事を終えて、
薪けむりは煙突から
西の空へ消え行く。

曇りかかった窓からは
薄い光が漏れていた。

何やら、微笑みを浮かべ
夕飯を頂く家族の姿。

食器を並べる音
お茶を注ぐ音が
聞こえるほど
色あせたぼろい家。

私には
しあわせの溢れる
お城のように想えた。

いつか、
家族と食卓を囲み、
暖かい食事を取りたい
・・・そんな事を夢見ていた。

日が沈む頃、
駅に行かない日は
人々の家の明かりを数えながら
川辺まで歩く

薄暗い川辺。
そこには、しあわせなどない。
すっぽりと、
目の中に入る月の光だけ。

段々と、川までが横たわり
そろそろおやすみ!と
私の帰りを急がせる。

今日も、長い時間お邪魔したね!
おやすみ、又明日!

いつもの様に小石を拾い、
人々の静かな寝息を聴きながら
歩いて帰る道。

一人ぽっちの部屋。
裸電球の下
手のひらへ小石を乗せ、
お互い見つめ合う。
小石だけが、増え続けていく日々

しあわせに飢えて
しあわせを、
求めていたかどうか分からない。

その後
小石達は私に、
しあわせの作り方を教え、
薪けむりのように
記憶の何処かへ消えて行った。






























 

故郷の雨

雨の夜だ
頭痛と体右の関節炎。
夜が明けるまで、眠れないだろう。

7階のベランダから
36号線を眺めていた。

理性を失ったかのように、
怪しい夜風が吹いている。

雨は、苦しみに耐えながら
落ちって行く。

天地創造の時、雨が降った。
滅びる時もきっと、  
雨は降るはずだ。

水圧の弱いシャワーのように
頬を伝って首へ、
首を伝って胸へと
ゆっくり混ざり合う雨の雫。

街路灯に照らされた雨の無常
君達は何処から来て
何処へ行くの。

遠い海から、
雲に乗り流れて来たならば、
しばらく、私に身を寄せて
旅路のお話、聞かせてよ!

絶え間なく走り去る車、車・・・
車輪に絡まれ、弾き飛ばされ、砕けては
また、アスファルトへ散る雨。
まるで、
飛び込み自殺に見えて、
やめろ!!と叫びだしそうだ。

あぁ!私が壊れていく・・・・・

雨の夜だ
痛くて眠れない夜だ
煙草の味も不味い。

雨に濡れた服を脱ぎ
匂いを嗅いたら、
昔の、雨の夜が想い出した。
・・・・・
故郷の雨は
悲しみの涙ではあったが、
苦しみの涙ではなかった。









 

鉄くずと飴

酒屋の隣り、
大きな桐のある空き地。

飴売りさんが、
リヤカーを引いてやって来た。

ごつごつの手には、
大きな鋏。
チョキ、チョキ、チョキ、
飴切り鋏の音
チョキ、チョキ、チョキ・・・・・

  鉄くず、持って来る子はいい子!
  いい子には、飴をあげるよ!

子どもに、中毒を引き起こす
チョキチョキの音。
そして、飴の味

ありとあらゆる物を
あの飴売りの爺に売った。

鉄の包丁、
キムチ用の白菜を洗う盥、
薬缶、南京錠、
草取り鎌・・・

交換して貰った飴を
家に持ち帰り
麦芽の粉をそっと落とし食べる。

年に、
二、三回、
切ないほど甘い、飴の為に
吐いた嘘。
  
  私ねぇ、毛むくじゃらの鉄泥棒が、
  逃げていくのを見たんだよ!!

父と母は当然知っていたはず。

飴売りに売った、大事な家財道具。

鉄泥棒は、私だった。

チョキ、チョキ、チョキ
チョキ、チョキ、チョキ・・・




大好きな映画がある。
ダニス・タノヴィッチ監督の 「鉄くず拾いの物語」
実話から生まれた物語です。

私は映画の、最初から最後まで共感する事ばかりで
胸が痛かった。
貧しい。くっそ貧しい・・・しかし、愛がある。沢山の愛がある。

昔私は、おやつを買うお金など無くて、
家にある鉄物を飴と交換してた。

懐かしくもない想い出だが、貧しかった我が家にも、
家族のかけがえのない愛があった。
「鉄くず拾いの物語」を見終えて、複雑な気持ちの中、
改めて‘‘愛”について考えた。

世の中には、想像を遥かに超える貧しい人々達がいる。
綺麗事を言っているかも知れないが、
愛の為に、愛を信じて、容易ではないが生き抜いて欲しい。





























 

天秤座

人間の立ち入りを阻む
草原茂みの奥には
神々の沐浴場がありました。

平等と言う名の女神は、
両手と両足を聖水に浸し
ミントの葉三枚を摘み、
口の中へ入れました。

そして、
オフィーリアの様に水の上に浮かび
一眠り・・・・・。

長引く、
神々の人間への審判議論は
結論を見出せず終わってしまったのです。

重い天秤を持ち続けている為、
女神はひどく疲れていました。

月桂樹に掛けられた、
しなやかに揺れ動く紫色のドレス。
木漏れ日に映し出されるシルエット
樹の枝に触れながら、
淑やかに踊っています。

原罪と贖罪、
美醜、善悪、
罰・・・・・。

決して、どちらにも偏らない平等。
沐浴を終えた女神はドレスを身に包み、
天秤を持ち草原を歩きました。

遠い所から、
女の泣き声が聞こえてきました。
人々から石を投げられ、衣を破られ、
髪の毛を毟り取られ、
体は傷だらけです。

罪びとの証、
くっきりと額に烙印が押されています。
悪行を繰り返す、執念深い悪女!

死を待ちながら、
懺悔の涙でも流しているのでしょうか!

平等と言う名の女神は、
女の涙の意味を分かっていました。

女神は女に言いました。
弛みなく光りなさい!
女神は女の涙を拾い空に散りばめました。

我々が投げた石。
我々の悪行。
我々は何一つ、賢明に裁く力など
持っていません。

神々は
我々の愚かさを教える為、
空の上に印しをつけました。

天秤座を見つけたら、
思い出して下さい。
人間が人間へ、
人間の、最後の審判を下している
愚かな悲しみを・・・・・。

※オフィーリア(ジョン・エヴァレット・ミレイの絵)
私は、オフィーリアを見ると天秤を持っている女神の姿を想い出す。
川で溺死するかわいそうな彼女だが・・・
その姿がうつくしい。
絵に描かれているオフィーリアは両手を少し上の方に上げている。
まるで、天秤を持っているかのように・・・。

ちなみに、アキ・カウリスマキ監督の ‘‘ハムレット・ゴーズ・ビジネス”の
映画の中にも登場するオフィーリア。
「ハムレット」のパロディなんですが、好きな映画です。




















坐禅師の教え


様々な宗教家の中で、
坐禅師の生き様や言葉を目にすると、
広大な宇宙と大自然の営みを感じる。

坐禅師の、
あぐらを掻いた真っ直ぐで清廉な背筋、本当にうつくしい。 
恋してしまうほど、その姿に惚れ込んだ。

私が最初坐禅を知ったのは17歳の頃
数えきれない程繰り返し読んだ本がある。
何処に行くにも、その本は私と一緒だった。
今は亡き、韓国では有名な法頂和尚さん。
卓越した散文作家であり、禅師でもあった。
一人で行なう毎日の修業、坐禅。
山での単純な暮らし、山と生き物達との共存共生。

インドやチベットその他、色々の国を訪れた時の感想や、
生老病死、森羅万象に対する見解の活字を目にして
私は興奮した。
本のページを捲ると、自分の中にある全ての疑問の答えが
書かれていたのだ。

本を読むうちに、
思想とか哲学、人間の力、心を超える、
自然、宇宙へのエネルギーに漠然な憧れを抱くようになった。

本に書かれている意味を、
頭ではなく、どうしても五感で感じたかった。
しかし、いまでも感じ取ることがなかなか出来ない。
坐禅を行い悟りたい思いはまったくない。
無心になりたい訳でもない。
少しでも、意識(こころ)から開放される瞬間を
感じ取りたかった。
‘‘無”とか‘‘空”と言う無意識の世界に強く惹かれていたのである。

何年か前、宮崎えきほ禅師の事を知った。
永平寺、それから、中央寺。
中央寺は札幌の歓楽街すすきのにある。
何だか面白い。
浮き世の中の俗世、すすきの
その真ん中にある禅寺。
宮崎禅師は1976年~1993年までお務めになられたという。

私が驚いたのは(あくまでも、本と映像で知る限り)
法頂和尚と宮崎禅師の顔立ち、
漂う雰囲気、お言葉遣いまでがあまりにも似すぎていたことだった
それと同時に、
なんとも言えないありがたい嬉しさが心の中に充満していた。

好きな言葉と言うより、実行したい教えがある。
法頂和尚の言葉だが、
そのまま訳すると

‘‘腹の中に飯は少なく、頭の中に考えは少なく、口の中に言葉は少なく”

私は何一つ、実行していない。いや・・・出来ないな!
簡単そうで簡単じゃない。
せめて、‘‘腹の中に飯は少なく” だけでも・・・
と思いづつ、かなりの量を食べてしまう毎日。

座右銘までとは言えないが、
自分自身、意識の中に言い聞かせる
一つの言葉があると、
人生、少しは助かるかも・・・・・また、頑張れるかも。


※法頂(ポプジョン)と言います。
 何冊か、日本語に翻訳されている本がありますので、(アマゾン)
 興味のある方はぜひ、読んでみて下さい。




 

白木蓮

いつか、
貴方に告白する為でした。

四月の清楚な朝。

うぐいすからのお知らせ。
こっそりと、
告白する秘密の場所を
教えて貰いました。

鬼ごっこの遊び場、
石塔の後ろにある白樺の隣。

自分と同じ背の
木蓮の苗木を植えました。

何年後には木蓮の花が
咲くでしょう。

貴方は見た事ありますか?
落下する木蓮の花びらを・・・

無垢衣を脱ぐ、
初夜の花嫁の姿なのです。

時の流れは早いもので
いつの間にか、
心も体も女性になりました。

会える約束の日!

貴方に告白する為、
何度も髪に櫛を入れ
精一杯身づくろいをし、
木蓮の下で貴方を待っていました。

一日、二日、三日・・・・・・

貴方は来ませんでした。

きっと、風の噂で
私のことを聞いたでしょう。
・・・・・・・
・・・・・・・

今年も
純白な木蓮の花が
誰かを待っているかのように
咲いています。

春風に触れ落下する花びら。

誰かの、
叶わぬ恋の傷。
白い瘡蓋のようです。

汚らわしい私には、
無垢衣を羽織る夢など
今は、持っていません。
こんな単純なこと、
もっと早く、気付くべきでした。








雨の降る夜、鉄道橋の下

その日もいつもの様に、
遠ざかる最終緩行列車の、
後姿を見届けていた。
8時間後、
朝日の昇る海岸線を通りがかり、
終点駅、釜山に着くだろう。

何の用も無いのに、
ひとりで駅に行っては、
しきりに改札口を覗く。
様々な表情を顔に浮かべ
出って行く人、入ってくる人、
送り迎えをする人々。
子どもながらにも、
大人達の心境を読み取っていた。

列車が見えなくなると、
広場の噴水井戸の水を
お腹いっぱい飲み、
線路つだいの土手を歩き家へ帰る。

その日の、
家に帰る途中、降り出した雨。
雨宿りしなくちゃ!
あっ、そうだ・・・
胸が高ぶり始まった。
いつか、行って見たかった鉄道橋の下
クムスンお姉さんがいる所。
あんなにもきれいな、赤い光。
あんなにもきれいな、女達。

売春宿の立ち並ぶ赤線地帯。
一度、
行って見たかった禁断の場所。

雨の降る夜になると、
鉄道橋の下へ行き、
嘘の雨宿りをする。
そこは、
湖に浮かぶ、
男と女達のうつくしい島。

何度も行く内に、
町のおじさん達の夜の顔を知り
何度も行く内に、
青年団地下組織の秘密基地が
あるのも知った。

時が流れ、
故郷を離れる最後の日も
そこの、赤い光を見つめた後
列車に乗った。

運よく、雨の降る夜だった。

夜は好きじゃない。
でも、雨の降る夜は好きだ。

子どもの頃、理屈なしに感じた感性、
今の私を支えている。
過去の想い出と言うより、
子どもの頃の想いで。

最近、ひとりで過ごす貴重な時間の合間
忘れていた色々の記憶が蘇る。
楽しかった想い出は少ないが
何かしらに、
見守られていたようなそんな気がした。

 ‘‘結局”

愚かな者は、
目隠しされた事に気づかず
導かされたと勘違いをしている。

    ようこそ!
‘‘結局” だらけの聖地へ。

結局達は、
聖歌隊のように喜びを歌い
互いに抱き合う。

正しい人格、
正しい言葉、
正しい答え、
正しい選択、
正しい理性・・・

結局達は自慢気に満ち溢れて、
最終的には ‘‘よかった” と
口を揃える。

結果論を称える時代!

四十代、これからの人生、
結局達を裏切りたい。

間違った人格、
間違った言葉、
間違った答え、
間違った選択、
間違った理性・・・

今までの
自分の結果論を覆し、
今までとは違う、
危険伴う結局達に
めぐり会いたい。

賢い者は、
中庸の美徳をよく知っているので、
結局達に片寄らない。
実に羨ましい事!

迷いの多い人生だからこそ、
私はもっと、もっと
間違いを繰り返し、
いつか、
‘‘結局” ・・・の人生に
自分なりのお礼を言えるようになりたい。
出来る限り、謙虚な心で・・・・・




 

Mr、カサブランカ

猫背の出来の悪い、
その上、器の小さそうな男。
磨かれた、眩しい光沢の
エナメル靴。

自称、カサブランカ、と言う男。

いつも、金縁の眼鏡越しに
私の事を観察している。

しかし、何故だか気になる。
妙に光っている、ミステリアスな目。

カサブランカ、
深夜を待ち焦がれては、
私を誘い出し、車を走らせる。
都会外れの田んぼ道。
コオロギ達の合唱を聴きながら、
カサブランカは息を飲み込む。
私は、
断頭台に置かれている様な
悲惨な気持ちだった。

言葉以外の言葉が
暗闇の空間を漂う。
異常な雰囲気ではあったが、
言葉の要らない、
沈黙の自由がある。

カサブランカは私に
罪と罰でもあり、
幸福を与えてくれる、
存在でもあった。

夜が明けるまで、
カサブランカは
微動もせず、ひたすら
何かを見つめていた。
何かを・・・

ある深夜

カサブランカは眼鏡を外し、
大きく息を吸った後、
私に言った。

君の乳房に、くちづけしたい!

・・・・・・・・

お金が欲しいのなら、あげるよ。
幾らでも。
幾ら欲しいのかい?
・・・・・・・

突然、
自分の中に何かが現れた。
幻から目が覚めたかのように、
瞬きが止まらない。

その時、私の頭の中に映画の台詞が浮かんだ。
    
   ‘‘君の瞳に乾杯!’’

・・・・・なぜか、
・・・・・とても、悲しかった。

思った通りのMr、カサブランカ。

私は何を求め、
あの男と会っていたのか!?

あの男から見たら、私は只の女。
私から見たら、Mr、カサブランカは只の男、だった。





 

ハンカチ (ソンスゴン)

人生の岐路に立たされたとき、
手の中にはいつも、
ハンカチがあった。

別れの時も、
出会いの時も・・・

ある日の、
踏みにじられ
粉々に砕けた愛を、
拾い集める哀れな
女の涙を、
拭いでくれたのはハンカチ。

ある日の、
去り行く命と
新たな命を目の当たりにして、
ただ、ただ流れる弱い涙を、
拭いでくれたのもハンカチ。

人生の岐路に立たされたとき、
手の中にはいつも、
ハンカチがあった。

悲しみや苦しみの痛み。
それらを手で拭くのは、
余りにもつらすぎる。

ハンカチは、
無言のまま一緒に泣き、
心を撫で摩ってくれる。

喜びや嬉しさ、幸福の、
有難い涙は、ゆっくりと
手で拭けばいい。

ふっと、開けた引き出しの奥に、
綺麗に畳まれているハンカチ。

お久しぶりね!!
・・・・・
私は元気よ!

何気なく、
口からこぼれた。



※ ソン(手)、スゴン(タオル)=ソンスゴン(ハンカチ)


 

靴に捧げる歌

私は、
あなたさえいれば、
何処へでも行けます。

あなたのお陰で、
私の人生は、今の所
何とかやっていけています。

まず、長靴さん!
寒い冬の凍った道から
私を守ってくれてありがとう!

一度も、滑り転ばず
冬を越す事が出来ました。
奇跡に近いです。

そして、作業靴さん!
いつも汚れている場所へ
先頭に立ち、大変お世話になりました。

何度も、挫けそうになった時、
秘密の階段の踊り場へ
私を連れては行き、励ましてくれた事
今も、忘れられません。

最後にスニーカーさん!
もう、お分かりかと思いますが、
あなたと私は、
見えない糸で
結ばれています。

言葉を交わさなくても、
お互いの心を分かっている。
だから、いつも一緒に
同じ場所で立ち止り、
泣いては笑いましたよね!

たかが、靴だと言われても・・・
あなた達なしでは、
まともに歩みません。
強そうに、偉そうにしていても
・・・・・弱い者です。

もっと早めに、
傷んだあなた達を
気遣うべきでした。

安心して下さい。

まだ、まだ、
末永く一緒にいられますので
今後ともお付き合い、
よろしくお願いします。


龍門寺 (ヨンムンサ)

母さんは、
幼い私をおぶって
川を渡る。
流されそうで怖い
そして、寒い・・・眠たい。

・・・・・・・

長距離バス、
でこぼこ、くねくね山道
車酔いと頭痛で泣いている私。

母さんは、
私の手を握って言う。

後、もう少しで
仏様に会えるから、
頑張るのよ!

川を渡り山奥に入れば、
龍門寺。

山の麓からお線香の匂い。

四月八日、
釈迦誕生記念日。

和尚さんのお言葉を
頂いた後、
母さんと一緒に提燈を点けて
拝む。

幼い私は祈った。

今度のお釈迦様の日には、
母さんと私が、
龍門寺に来られないように
お願いします。

お寺までの道のりが、
あまりにも辛かったので
そんな願いをしてしまった。

母さんはきっと、
家族の事を祈ったに違いない。

龍門寺・・・

その後も、
母さんにおんぶされて何度も
川を渡り訪れる。
汗の染み込んだ、母さんの麻の韓服。
背中からの母さんの温もり。

大好きな母さんの匂い・・・
その想いが、いま
とても懐かしく、恋しい。
 


韓国では、陰暦四月八日は、釈迦誕生の日。
仏教信者が多いので、盛大に提燈が飾られ、
お寺は大混雑。
身を清めては、
遠くにあるお寺へ毎年母さんと行く。
・・・・・
30年前、母さんは亡くなった。
それから龍門寺には行っていない。
この頃、龍門寺へ行ってみたいと思う。

今じゃ、立派な橋が川に架けられているはず。
いつか、
必ず龍門寺へ行きたい。

※韓服(ハンボック)。チマチョゴリ、とも言う韓国固有の衣服。








 

太陽の子ども

君の、

瞳の中にある

静かな丸い湖水。

お日様の光が、

ゆらゆら踊っているよ。

眩しくなったら、

瞬きをしてごらん!

こぼれても平気。

大事なのは、

体の隅々まで丁寧に運ぶこと。

こころの奥まで、

たっぷりと、

光を溜めさせるのよ。


君は太陽の子ども!

光で出来ているの。

だから、何も恐れなくていい。

計り知れない程の光に、

包まれている事を忘れないで!

日の当たらないところがあったら、

君が陽になってあげて。


君の瞳の中

静かな丸い湖水。

お日様の光が、ずっと、

君を守っている事を忘れないで!!



猫のように、気持ち良さそうに~
日向ぼっこをしている娘。
春の優しい光。娘の瞳を見ていたら
カーリル・ギブランの‘‘あなたの子どもは”と言う詩を
思い出した。

あなたの子どもはあなたの子どもではない。
・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
あなたは弓である。
そしてあなたの子どもらは
生きた矢としてあなたの手から放たれる。
弓ひくあなたの手にこそ喜びあれと。

※カーリル・ギブラン(ハリール・ジブラーン) レバノン生まれの詩人。


日向ぼっこをしている娘。
私は一瞬、子ども達が、
太陽の子どものような気がした。




































 

さくら

花びら吹雪く
路頭に立っていると
恥ずかしくなる。

自分の無知、
自分の虚偽、
自惚れ・・・。

まるで、桜は
私の足に踏まれて
泣いているかのよう。

私は
弱くも、強くもない。
嘘つきでも正直者でもない。

あぁ!
あの花びらを、
怖がる私の悲しさ!

私は慌てて靴を脱ぎ
裸足になる。

止まない花びら・・・・・

ついに私は、獣の様に
口を荒々しく広げ、
桜を飲み込んだ。

重い病気を患う、
私を、治してくれそうな
特別な薬のような、
そんな気がした。

自分の飾る言葉、
自分の偽りの姿、
ぬるい意識・・・

桜は、
身を持って教えてくれる。

時に従え!

・・・・・・・。

適当に、
適当な人間になりたい。
秋に、
桜を思う季節遅れの人間のままでいたい。