夫婦

木でありたいと
思っていました。

嵐が吹いて、
木の枝が一つや二つ折られても
黙って立ち続けていたいと
願っていました。

試練の多い
木でありたいと思っていました。

自然であり、不自然でもある
世の中の厳しい姿を、
無条件に受け入れることは
決して良いとは思いません。
しかし、
受け入れないと分からないのが
我々なのです。

木でありたいと
思っていました。

囀る鳥にも、
つつく鳥にも、虫にも、
同じ気持ちで向き合える
太い芯を持ちたいと
願っていました。

あいだを保つ
木でありたいと思っていました。

目の前の世界が全てでも
全てじゃなくても、
現実から逃げず
身の程を知った上で、
それなりの実を結び、
誰かに、何かに分けあうことができれば
良いと思いました。
しかし、
なりたくてもなれないのが
我々なのです。

夫婦の木に刻まれる年輪は
二人による
一つの成長の証なのです。

一人だけじゃ成長し続けることは
できません

起こりうる様々なことを持ち堪え
常に新しく芽生え続ける
夫婦でありたいです。

そんな木でありたい・・・・・。

今でも、その思いに変わりはないです。

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